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病とともに生きる作詞家──権谷達哉の歩み
国際的な音楽活動を展開する作詞家・プロデューサーの権谷達哉。彼の作品は、戦 争の記憶や人間の尊厳といった普遍的テーマに支えられた、深く誠実なメッセージ性 を持つ。しかし、その創作の根底には、長年向き合ってきた**精神疾患(統合失調 症)**との闘いがある。彼はその病の存在を隠すことなく、自身の一部として受け止 め、表現と再生の糧としてきた。これは単なる「克服」の物語ではなく、「共に生きる」こ との尊厳を静かに伝える実践である。
権谷が統合失調症を発症したのは、富山大学経済学部在学中のこと。教員免許取得を目指していた大学 6 年次、卓球の全日本学生選手権大会を富山県へ誘致する という計画をめぐって、学生たちがボイコットを起こし、彼自身が学生側と社会人側の 板挟みになるという状況に陥った。責任感の強さと調整役としての重圧から、彼は極 度のストレスと 1 週間にわたる不眠状態に追い込まれ、やがて統合失調症(当時は 「精神分裂病」と呼ばれていた)を発症する。 彼は後年、自身のブログでこう綴っている。「若いときに理不尽な社会の圧力にさらさ れて、病気になった。反骨心や自己顕示欲が抜けず、自分をうまくコントロールできな かった」。これは、単なる自責でも自己憐憫でもない。むしろその言葉には、過去の自分を冷静に見つめ、社会の構造的な圧力に対する鋭い批判と、人間としての誠実な 内省が込められている。
大学は卒業したものの、発症後の人生は決して順風満帆ではなかった。定職には就 けず、塾講師や非常勤講師、運送会社、福祉施設の職員など、多くの職を短期間で 転々とした。病状の波と社会的な孤立感の中で、自信を失いかけた時期もあったとい う。だが、彼はそのような状況を自分の中で「敗北」とは定義せず、むしろ、「そのなかで生き続けること」こそが重要なのだと考えた。
転機となったのは、地元・石川県での卓球部のボランティアコーチとしての活動だっ た。地元の公立高校で十年近く、無償で高校生たちを指導した。卓球というスポーツ を通じた身体性、コミュニティとのつながり、そして「居場所」としての学校。その環境 の中で、少しずつ精神状態が安定し始めたという。この頃から、彼は言葉による表現 ――つまり「作詞」へと、静かに踏み出していく。 音楽活動が本格化するのは、30 代半ば。世界中のアーティストとつながる SNS 「ReverbNation」への参加をきっかけに、オーストラリアの Bree-Arne Manley、ドイツ の Marco Heimann、アメリカの Jimmy Dukelow らと国際的なコラボレーションを重ね るようになる。病と向き合いながら、自身の内面と世界への願いを歌詞に込めていく プロセスは、「生きること」と「表現すること」が限りなく近い場所にあることを示してい た。
そして、イギリスの伝説的プロデューサースチュアート・エップスとの出会いが、彼の 作詞家人生を決定づけた。共作によって生まれた「NO ONE」「THIS WORLD」 「MOTHER」といった楽曲は、いずれも平和や命の尊さを歌った力作であり、国際的に も高く評価されている。病という見えない苦しみを抱えながらも、彼の言葉はむしろ透 明な強さを帯び、聴く者に深い共感と気づきを与えてくれる。 近年では、AI との共存という新たなテーマにも挑んでいる。AI と人間の協働による音 楽制作を通じて、「ことば」と「音」の可能性をさらに広げようとしている。反戦と共生を テーマとした AI 音楽コンピレーション『NOW APOLOGY』では、彼の詩が AI によって アレンジされ、デジタル技術と人間の情感の融合という新たな地平が拓かれた。 彼の表現の核心には、こうした病との共存が常にある。音楽とは、単に楽しいもので はなく、生きづらさや苦しみと向き合う場所でもある。だからこそ、彼の歌詞は空虚な ポジティブさではなく、深く静かな「希望」の手触りを持っている。

©GONTANI MUSIC E-STUDIO

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